松江市

【松江】不昧公ゆかりの茶室「明々庵」で庭園を眺めながらお茶を一服

明々庵(めいめいあん)は、松江藩の茶人大名として名をはせた「松平不昧(まつだいらふまい)」が、1779年に作ったお茶室の一つ。

東京など数か所のお引越しを経て、昭和41年に移築されたものが現在の明々庵です。そんな明々庵を見ると、お茶の世界や松江市をより深く知ることができます。

明々庵でしか見られないレアな松江城

現在明々庵があるのは、塩見縄手から北に入った場所。赤山と呼ばれる県内有数の進学校と隣り合わせた、とても静かな高台にあります。

明々庵へ続く石段。この石段を上ったところは展望所のようになっており、きれいな松江城を臨むことができます。

どこから見ても背後にモノがない松江城ですが、これだけお城がくっきり見えるのは赤山ならでは。実は地元の人でもあまり知らない場所。

急な石段を上った人にだけ訪れる素敵な景色なんです。

大陸文化を受け継いだ茶室

展望所でお城を眺め、受付を済ませて中に入ると、こじんまりした庭園があります。正面にあるのが待合といってお茶室に行く前に待機する場所。

そしてその奥に明々庵があります。現在の明々庵は見学のみで、立ち入りは禁止です。

お茶室というと、お茶をいただく部屋だけというイメージがありますが、明々庵は小ぶりながらもいろいろな部屋があります。何だか住めそうな感じですが、実はこれ朝鮮式であるとのこと。

お茶の第1人者として有名な千利休、その祖父は朝鮮滞在歴が長く、その風習を受け継いだそうで、千利休をお手本とする松平不昧は、このような作りの茶室を作ったのだそうです。

茶道というと和のイメージが強いですが、大陸文化を受け継いでいるんですね。

そもそもお茶自体、大陸から持ち込まれ薬として飲まれていたもので、今の茶道は千利休が確立して武家のたしなみとしてできていったもの。

そんな歴史がこの小さな空間で感じることができるんです。

にじり口には刀を外して茶室に入るための刀置き場もあります。実はこれ頭を下げるといったわびさびというより、元々お茶は「武家の作戦会議」という意味合いがあったため。

言われてみれば、千利休は大河ドラマによく出てきますね。

現代の「茶道=上品な和の世界」というイメージは明治以降に作られたごく最近の話のようです。

また明々庵の屋根は「入母屋づくり」と言って、ひさしが長め。雨や日光を防ぐことができる快適な作りで、見た目に素敵なかやぶきでもあるのが特徴。

「心遣い」「おもてなし」といったイメージも、ちゃんと反映されているんです。

松江市は家でも習慣的に抹茶、緑茶を飲む町ですが、そういった習慣があるのは、この場所を作った松平不昧がいたから。

松平不昧が愛したお茶は「自由さ」。作法に囚われるのではなく、いろいろな人とお茶を楽しむということ。

そしてこういったお茶室を置ける静かなエリアが、今もあるからこそ明々庵があるのです。明々庵の世界は江戸から松江市民が愛し、大事にしてきた空気そのものなんですね(*^^*)

百草亭で庭園を眺めながら一服

明々庵と同じ敷地内にある百草亭(ひゃくそうてい)では、庭園を眺めながらお茶をいただくことができます。

百草亭は明々庵とは打って変わって広いお茶室。床の間に茶釜やかわいらしい水差しが置かれ、いかにも「茶室」といった雰囲気。

庭園を眺めると緑が目に美しく、木の配置や石の選び方など心配りがたくさん。

茶室の庭は漢字を表していることが多いそうなのですが、明々庵はずばり「心」。言われてみれば、道が曲線、建物の配置が不思議な位置!なるほど!

そしてお待ちかねのお茶。お茶菓子は不昧公の和歌に出てくる「若草」と「菜種の里」。若草はミニサイズ、そして菜種の里は蝶が舞っています。

どちらもお土産に買えますが、必ず蝶が入っているのは百草亭でお茶をいただくときのみ。お茶の心配り、今でもしっかりと引き継がれています。

やや不便な場所にある明々庵ですが、散歩でふらりと来るもよし、どんな訪れ方をするのかはその人次第。あなたが選んだ時が「一期一会」のときなんです。

不昧公が愛したお茶をいただきながら、あなたもほっこりした時を過ごしてみませんか。