2025年に放送されたNHK朝ドラ「ばけばけ」の舞台として注目を集めた、島根県・松江市。

小泉八雲夫妻をモデルにした物語でしたが、ドラマの魅力をより深く感じさせてくれるのが、今も町に残る“明治の風景”です。

そのひとつが、松江大橋北詰めにある「橘泉堂 山口卯兵衛商店(旧山口薬局)」。

松江大橋をのぞむ、明治の建物

ドラマでは、ビールを扱いながらレストランも営む重要な場所として描かれていたこのお店。

実際の橘泉堂 山口卯兵衛商店は、京店商店街のすぐそば、松江大橋を望む場所にあります。

現在は建物の横が駐車場になっているため、気を抜くとそのまま通り過ぎてしまいそう。けれど一歩視線を向けると、そこだけ空気が違うのです。

令和の町並みに、明治がそっとはまり込んでいるような不思議な感覚。

実はこの建物、明治期の貴重な建築として松江市登録歴史建造物にも指定されています。つまり、小泉八雲が歩いた時代の景色を、今もほとんどそのまま味わえるということ。

小泉八雲記念館から松江大橋へ向かって歩けば、ドラマの世界観が自然につながっていきます。

松江城周辺の魅力は、“点”ではなく“町ごと”物語の舞台になっていること。歩くだけで聖地巡礼になる、そんな町はなかなかありません。

建物だけじゃない。店内に広がるレトロな世界

ドラマでは“薬屋さん”として登場していたこの場所ですが、実際も現役の漢方薬局。そして、どこか懐かしい雑貨店でもあります。

店内へ入ると、まず感じるのは木のぬくもりと静かな空気。

明治の面影を残した空間には薬草茶や漢方が並び、その奥にはハンドメイド雑貨や古いガラス製品が所狭しと並んでいます。

厚みが均一ではない昔のガラスは、光の揺らぎまでやさしいんですよね。

小さなガラス瓶や古道具は手にとりやすい価格のものも多く、気づけば「これ、部屋に飾りたいな」と見入ってしまいます。

店内には「ばけばけ」にちなんだコーナーもあり、レトロデザインの絵はがきは旅の記念にもぴったり。

さらに、ハンドメイド作品はどれも一期一会。古い建物の空気と重なることで、不思議なくらい魅力的に見えてきます。

小さな“まちかど博物館”で、昔の暮らしに触れる

お店の奥には「まちかど博物館」と呼ばれる小さな展示スペースがあります。

季節ごとに展示内容が変わるそうで、訪れた5月には大正期の鎧兜が静かに飾られていました。

決して広い空間ではないのに、飾り方がとても丁寧。法被(はっぴ)なども並び、「昔の人は、限られた空間を大切に整えて暮らしていたんだな」としみじみ感じます。

そして、その横にはかなり急な階段。もはや“段”というより箱の積み重ねのようで、思わず見上げてしまいます。

ドラマでは、この奥に秘密の倶楽部が隠されていましたが——。

現在の2階では、ヨガ教室などが開かれているそう。マットを抱えた女性たちが、細い階段を次々とのぼっていく光景もどこか松江らしくて素敵でした。

もちろん秘密結社ではありません。でも、明治の建物特有のこぢんまりした造りは、つい“何か物語がありそう”と思わせてくれるんですよね。

店の片隅には、昔のビール瓶やレトロな毛染め箱、さらには当時のタピオカまで並んでいます。

そんなものまで昔からあったの?と驚きながら眺めていると、時間の感覚が少しずつ曖昧になっていきます。

怪談や不思議な話がこの町で自然に生まれていった理由も、なんだかわかる気がしました。

旅の途中で漢方相談をしてみる

橘泉堂 山口卯兵衛商店は、今も現役の漢方薬局。

店の横には漢方相談スペースがあり、こちらもまた明治の空気たっぷり。重厚で少し不思議な雰囲気ですが、実際はとても親切に薬草茶などを紹介していただけます。

店内には、松江名産の「大根島の高麗人参」を使った商品や、当帰入りの塗り薬、どくだみ茶、よもぎ茶など、身体をいたわるものがたくさん。

旅先で薬草茶を選ぶ、という体験はなかなか新鮮です。

筆者は「甘茶」が気になり手にとったところ、試飲までさせていただけました。

甘茶は仏様の誕生日である灌仏会(かんぶつえ)に使われるお茶。名前の通りほんのり甘く、クセが少なくて飲みやすい味でした。

急須での淹れ方まで丁寧に教えていただき、気づけばそのまま購入。

観光地で名物を買うのとは少し違う、“暮らしの延長線にある旅”を感じられる時間でした。

松江という町で、何に出合うか

250年以上続く店には、建物だけではない積み重ねがあります。

昔の道具も、薬も、人の営みも。すべてが今の暮らしにつながっていて、ただ“展示されている”わけではありません。

橘泉堂 山口卯兵衛商店にあるのは、長い時間が自然に育ててきた空気そのもの。

見るのも楽しい。買うのも楽しい。

そして、ただ静かに過ごすだけでも心地いい場所です。

明治の風景が今も残るこの町で、どんな景色や時間に出合えるのか。それもまた、松江ひとり旅の楽しみのひとつかもしれません。